日本の城とは

目次

①古代からの「城」、「柵」とは

 城柵(じょうさく)は、7世紀から11世紀までの古代日本において大和朝廷ヤマト王権、中央政権)が、本州北東部を征服する事業の拠点として築いた施設である。[ウイキペディアより]

 有名なものとしては、アテルイ(大墓公阿弖流為)討伐のために坂上田村麻呂が築いた胆沢城(柵)岩手県奥州市)や当時の東北地方の国府鎮守府として機能した多賀城(柵)宮城県多賀城市)などがあります。

 ウイキペディアの記事にもあるように、「柵」は特に東北地方の施設に付いた名前のようで、西日本(特に九州)では「柵」とは言わないようです。

 西日本の有名な城郭としては、大野城(福岡県太宰府市大野城市糟屋郡宇美町にまたがる)や水城(福岡県太宰府市大野城市春日市にまたがる)があります。

 ただ、東北地方の「柵」も西日本の「城」も「き」と読みます。

 この頃の城は、現在の天守などはなく、環濠地に柵を巡らせ、場合によっては見張りなどに使用する櫓がある程度のもの、また敵の侵入を妨害するための防塁だけのものなどです。(イメージ的には防御のため柵でバリケードした中世ヨーロッパの城塞都市のような感じといったところでしょうか)

②中世の城

 ここでいう「中世」とは、主に南北朝時代をイメージして書きます。

 この時代の特徴としては、

 ・基本的に山の中腹や頂上に存在している。(山城)

 ・これまでになかったものとして堀切空堀がある。

 ・施設防衛のために曲輪(くるわ)が設けられている。

  ※ここでいう曲輪とは、本丸、二の丸、出丸、馬出など土地をある程度平坦に削り  

   出し、味方が集合・集結できる空間のこと

  といったものです。

 この頃でも、まだ天守はありません。ただし、実際に戦闘を想定して作成されていますので、難攻不落と言われる城が存在しているのも事実です。(広島県安芸高田市吉田郡山城などは難攻不落で有名ですね)

③戦国時代の城

 この頃の城の大部分は、それ以前から存在している「山城」が主体ですが、平地の丘陵部分に作られた平山城、河川の中州など平野部に作られた「平城」などが出てくるようになります。

 本来、城の防衛のためだけであれば、高い場所に城を築くのがよいのですが(富士山の頂上に城を築けば難攻不落間違いなし!?)、自分の領地を守るためにはあまり高い場所に城を築いても籠城中に城下の建物が燃やされるなど被害が出ます。

 そういった被害をできるだけ防ぐために城下町を整備し、家臣を城下に住まわせて緊急時の対応や見張りを兼ねさせること、また、この頃には天守も登場し、政治的支配の拠点として機能していました。(山城は防御には向くが政治支配としては領地との距離がある)

 また、この頃の城の特徴として、鉄砲や大砲への対策としての石垣や土壁を塗った建物の整備(逆に言えば昔の城は敵の侵入防止のための柵で簡素な造りのもの、戦闘たびに場所が変わるなどの使い捨て的な使用方法のものがありました。)など、政庁として恒常的に使用することを想定して作られるようになったようです。

④江戸時代以降の城

 江戸時代以降の城は、軍事拠点としての意義がほとんどなく、政庁としての意味合いのみの施設となったようです。

 領民から徴収した税としてのお金や米などを保管する蔵が城内に作られ、これらの金品を守ることが城の役目となっていったようです。

 その後幕末には再び内戦の兆しがあったため、従来の城とは一線を画すもの(函館の五稜郭は有名ですよね)も登場し、近代の戦闘に対応する城も登場するようになりました。