日本三大怨霊の考察

悪霊とは

 ここでの「怨霊」とは、天変地異疫病蔓延など、平安貴族の政事である「歌(ウタ)」によって沈められない事象に対して「怨霊の仕業」とし、この怨霊の霊魂を鎮めるために「神」として祀ったり、怨霊に対して贈位などで復権させることで対処してきました。

 古代からさまざまな怨霊(恨みを持って死んでいった人たち)がありましたが、特に有名で且つ高位で影響力の高かった人物で、死後の天変地異などの発生が長かったり、一撃の被害が大きかった人物のうち、3名が「日本三大怨霊」として恐れられていましたので、この3名を取り上げてみたいと思います。

菅原道真

 [845年~903年]生前時の位階 従二位 右大臣(死後 贈正一位 太政大臣

 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐天皇在位時に右大臣にまで上り詰めた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、太宰府太宰権帥(だざいごんのそち)として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神、受験の神として親しまれる。 太宰府天満宮の御墓所の上に本殿が造営されている。小倉百人一首では、菅家。(ウイキペディアより)

 天皇への謀反の疑いを掛けられ、員外官として太宰府へ左遷(実質的な島流し)され、また太宰府への移動は自費、赴任先の太宰府では給料も部下も与えられず、政庁である太宰府への登庁も禁じられていたそうです。

 道真の死後5年~10年で政敵が次々と病気や事故で死んでいき、謀反の疑いの対象となっていた相手方の皇太子(保明親王)も病死し、これが道真の怨霊(祟り)の仕業だとされ、従二位太宰権帥から右大臣に復権し、正二位が贈られたそうです。

 しかし、930年に禁裏清涼殿で朝議中に建物に落雷があり、多数の死傷者が出たこと、それを目撃した天皇醍醐天皇)も体調を崩してその約3か月後に崩御し、これも道真の怨霊が原因とされ、947年に京都の北野天満宮にて「」として祀られることとなりました。

平将門

 [903年?~940年]生前・死後も無位無官

 平安時代の関東の豪族。桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男鎮守府将軍平良将の子。

 下総国常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。

 しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。

 死後は御首神社、築土神社神田明神、国王神社などに祀られる。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使した。(ウイキペディアより)

 将門は地方より15、6歳のころ平安京へ出て、藤原北家氏長者であった藤原忠平と主従関係を結びます。将門は家柄は良かったのですが(鎮守府将軍である父を持ち、自らも桓武天皇の子孫)、将門自身は滝口の衛士でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの地位は低かったようです。将門は12年ほど在京して、当時軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが要望は通らなかった(日本外史神皇正統記は「それを恨みに思って東下して反逆を犯した」とするが、現実的でなく、謀反は「制度に対しての行動」としている『山陽外史』の見方がある)。この後将門は自らの領地へ戻ります。

 領地に戻った際に、叔父たち(平国香平良兼)に領地を分割横領されていたため、領地を取り戻す戦いを行い、一定の領地を回復しました。また、この戦いはあくまで「私戦」という捉え方で、朝廷に対する反逆とは認識されていなかったようです。

 その後武蔵国の長官と次官が不仲になり、次官が将門を頼るようになると、国府との調整の結果、本人の希望ではなく国府軍と戦闘になり、戦闘後に国府が発行する際に押す「印綬」を没収してしまったことから、朝廷に対する反逆と認識され、藤原秀郷などの討伐軍を派遣されることになり、最後は討死し、首は京都に送られたそうです。

 伝説では、討ち取られた首は京都の七条河原に晒されたそうですが、何か月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかったそうです。

 ある歌人が首の前で歌を詠んだ際に、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言った。声は毎夜響いたという。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいったと言い伝えられています。

 東に向かって飛んで行った将門の首は東京千代田区の「将門塚」付近に落ちたそうです。この首塚を動かそうとしたものには祟りがあると信じられ、太平洋戦争後のGHQが建物建設の際に邪魔になるため動かそうとしたが、多数の事故が重なり断念したそうです。

 御首神社に伝わる話では、将門の首は美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落されてしまう、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てられたという言い伝えがあるそうです。 

崇徳上皇

 [1119年~1164年]上皇のため官位官職なし

 第75代天皇。諱は顕仁(あきひと)。

 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。譲位後は新院、その後、 平安時代末期の1156年(保元元年)に貴族の内部抗争である保元の乱後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれた。(ウイキペディアより)

 元々天皇になった年齢も幼く(4歳頃)、実権は父の鳥羽上皇が握っており、次の天皇近衛天皇)は弟ではあるが養子縁組を行い、後には近衛天皇院政を敷くことができると思われたが、譲位時の宣命では「皇太弟」となっていたため、弟では院政を敷くことが出来なくなってしまったようです。また、保元の乱に巻き込まれ、乱発生時の天皇後白河天皇)に敗れたために讃岐国香川県)に流罪となり、同地でも罪人の扱いを受けていたそうです。崩御の際に朝廷からの弔いはなく、死後も無視され続けたそうです。

 上皇の死後13年が経過し、1177年に比叡山延暦寺の強訴、都の大火事(安元の大火)、平家政権転覆計画事件(鹿ケ谷の陰謀)などが立て続けに起こり、都を中心として社会情勢が不安定になり、皇室内でも後白河上皇に近い人物が死んでいったことから「讃岐院(上皇)の祟り」と言われ始め、上皇院号が「讃岐院」から「崇徳院」に変更されました。

 上皇の生前での話として、「保元物語」では讃岐での軟禁生活中に書いた五部大乗経の写本を京都の寺に納めてほしいと願い出たが、「呪詛が込められているのでは」と受け取りを拒否し、上皇に送り返したため激怒し、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込んだ。そして崩御するまで爪や髪を伸ばし続けて夜叉のような姿になり、後に天狗になったとされているそうですが、「今鏡」では「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はないそうです。

 また、明治天皇即位の礼を執り行う際に、勅使を派遣し崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮京都市上京区今出川堀川)を創建したそうです。 

最後に

 今回、怨霊とされた3名は、いずれも他人(第三者)に振り回され、計画的に政治の中心から排除され、寂しく死んでいったと思われますが、その後の災厄を故人のせいにされたために怨霊と呼ばれてしまったのかなと感じました。(生きているものからすれば「見えない力」ほど怖いものはないですからね)