ぜひ見学してほしいお城三選

 これまでに自分で見たことのあるお城のうち、皆さんにも見てもらいたいと思うお城三選をご紹介したいと思います。お城好きなら絶対に喜んでもらえるかと思います。

①姫路城

 別 名:白鷺城

 築城者:赤松貞範(鎌倉時代御家人室町時代守護大名

 築城年:1346年頃

 城郭構造:渦郭式平山城

 廃城年:1871年廃藩置県による)

 遺 構:天守現存天守)、櫓、門、石垣他

 このお城、天守までの道のりが、「建物は見えている」のになかなか到着しません。でも天守は綺麗なまま保存されていますし、何より姫路駅からそんなに離れていません。天守以外の構造物(櫓や門など)も残っていますので、お城見学する分には見ごたえがあります。

彦根城

 別 名:金亀城(こんきじょう)

 築城者:井伊直継(二代藩主井伊直孝の異母兄)

 築城年:1622年

 城郭構造:連郭式平山城

 廃城年:1874年(民間への払い下げ)

 遺 構:天守現存天守)、櫓、門、石垣他

 このお城は、城全体の規模がそんなに大きくないので、一息で見学できてしまう気軽さがありますが、天守内部は見学通路上に普通に建物の梁などがあり、当時の建物建築に関する構造などが見学でき、実見した感想としてはすごく印象に残っており、ぜひ見学してもらいた施設です。

鳥取

 別 名:久松城(きゅうしょうじょう)

 築城者:但馬山名氏

 築城年:1530年~1560年頃

 城郭構造:梯郭式平山城及山城

 廃城年:1871年廃藩置県による)

 遺 構:石垣、堀、井戸

※赤囲みが戦闘時の詰め丸(山上ノ丸)、黄囲みが平時の居住施設(二の丸)

 このお城は、残念ながら天守は残っていません(明治に入ってから当時の陸軍省によって解体されたようです)。また、私個人も山上の詰め丸へは行けてません(ヘビ出没注意の看板があって怖くていけませんでした)。しかし、黄囲みの中にある「天球丸」と言われる石垣が、何とも奇妙で、またここでしか見れないものなのでぜひ見てもらいたい遺構です。

 

 ということで、私が見学したことがある中でのぜひ見学してほしいお城三選でした。

日本三大怨霊の考察

悪霊とは

 ここでの「怨霊」とは、天変地異疫病蔓延など、平安貴族の政事である「歌(ウタ)」によって沈められない事象に対して「怨霊の仕業」とし、この怨霊の霊魂を鎮めるために「神」として祀ったり、怨霊に対して贈位などで復権させることで対処してきました。

 古代からさまざまな怨霊(恨みを持って死んでいった人たち)がありましたが、特に有名で且つ高位で影響力の高かった人物で、死後の天変地異などの発生が長かったり、一撃の被害が大きかった人物のうち、3名が「日本三大怨霊」として恐れられていましたので、この3名を取り上げてみたいと思います。

菅原道真

 [845年~903年]生前時の位階 従二位 右大臣(死後 贈正一位 太政大臣

 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐天皇在位時に右大臣にまで上り詰めた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、太宰府太宰権帥(だざいごんのそち)として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神、受験の神として親しまれる。 太宰府天満宮の御墓所の上に本殿が造営されている。小倉百人一首では、菅家。(ウイキペディアより)

 天皇への謀反の疑いを掛けられ、員外官として太宰府へ左遷(実質的な島流し)され、また太宰府への移動は自費、赴任先の太宰府では給料も部下も与えられず、政庁である太宰府への登庁も禁じられていたそうです。

 道真の死後5年~10年で政敵が次々と病気や事故で死んでいき、謀反の疑いの対象となっていた相手方の皇太子(保明親王)も病死し、これが道真の怨霊(祟り)の仕業だとされ、従二位太宰権帥から右大臣に復権し、正二位が贈られたそうです。

 しかし、930年に禁裏清涼殿で朝議中に建物に落雷があり、多数の死傷者が出たこと、それを目撃した天皇醍醐天皇)も体調を崩してその約3か月後に崩御し、これも道真の怨霊が原因とされ、947年に京都の北野天満宮にて「」として祀られることとなりました。

平将門

 [903年?~940年]生前・死後も無位無官

 平安時代の関東の豪族。桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男鎮守府将軍平良将の子。

 下総国常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。

 しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。

 死後は御首神社、築土神社神田明神、国王神社などに祀られる。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使した。(ウイキペディアより)

 将門は地方より15、6歳のころ平安京へ出て、藤原北家氏長者であった藤原忠平と主従関係を結びます。将門は家柄は良かったのですが(鎮守府将軍である父を持ち、自らも桓武天皇の子孫)、将門自身は滝口の衛士でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの地位は低かったようです。将門は12年ほど在京して、当時軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが要望は通らなかった(日本外史神皇正統記は「それを恨みに思って東下して反逆を犯した」とするが、現実的でなく、謀反は「制度に対しての行動」としている『山陽外史』の見方がある)。この後将門は自らの領地へ戻ります。

 領地に戻った際に、叔父たち(平国香平良兼)に領地を分割横領されていたため、領地を取り戻す戦いを行い、一定の領地を回復しました。また、この戦いはあくまで「私戦」という捉え方で、朝廷に対する反逆とは認識されていなかったようです。

 その後武蔵国の長官と次官が不仲になり、次官が将門を頼るようになると、国府との調整の結果、本人の希望ではなく国府軍と戦闘になり、戦闘後に国府が発行する際に押す「印綬」を没収してしまったことから、朝廷に対する反逆と認識され、藤原秀郷などの討伐軍を派遣されることになり、最後は討死し、首は京都に送られたそうです。

 伝説では、討ち取られた首は京都の七条河原に晒されたそうですが、何か月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかったそうです。

 ある歌人が首の前で歌を詠んだ際に、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言った。声は毎夜響いたという。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいったと言い伝えられています。

 東に向かって飛んで行った将門の首は東京千代田区の「将門塚」付近に落ちたそうです。この首塚を動かそうとしたものには祟りがあると信じられ、太平洋戦争後のGHQが建物建設の際に邪魔になるため動かそうとしたが、多数の事故が重なり断念したそうです。

 御首神社に伝わる話では、将門の首は美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落されてしまう、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てられたという言い伝えがあるそうです。 

崇徳上皇

 [1119年~1164年]上皇のため官位官職なし

 第75代天皇。諱は顕仁(あきひと)。

 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。譲位後は新院、その後、 平安時代末期の1156年(保元元年)に貴族の内部抗争である保元の乱後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれた。(ウイキペディアより)

 元々天皇になった年齢も幼く(4歳頃)、実権は父の鳥羽上皇が握っており、次の天皇近衛天皇)は弟ではあるが養子縁組を行い、後には近衛天皇院政を敷くことができると思われたが、譲位時の宣命では「皇太弟」となっていたため、弟では院政を敷くことが出来なくなってしまったようです。また、保元の乱に巻き込まれ、乱発生時の天皇後白河天皇)に敗れたために讃岐国香川県)に流罪となり、同地でも罪人の扱いを受けていたそうです。崩御の際に朝廷からの弔いはなく、死後も無視され続けたそうです。

 上皇の死後13年が経過し、1177年に比叡山延暦寺の強訴、都の大火事(安元の大火)、平家政権転覆計画事件(鹿ケ谷の陰謀)などが立て続けに起こり、都を中心として社会情勢が不安定になり、皇室内でも後白河上皇に近い人物が死んでいったことから「讃岐院(上皇)の祟り」と言われ始め、上皇院号が「讃岐院」から「崇徳院」に変更されました。

 上皇の生前での話として、「保元物語」では讃岐での軟禁生活中に書いた五部大乗経の写本を京都の寺に納めてほしいと願い出たが、「呪詛が込められているのでは」と受け取りを拒否し、上皇に送り返したため激怒し、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込んだ。そして崩御するまで爪や髪を伸ばし続けて夜叉のような姿になり、後に天狗になったとされているそうですが、「今鏡」では「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はないそうです。

 また、明治天皇即位の礼を執り行う際に、勅使を派遣し崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮京都市上京区今出川堀川)を創建したそうです。 

最後に

 今回、怨霊とされた3名は、いずれも他人(第三者)に振り回され、計画的に政治の中心から排除され、寂しく死んでいったと思われますが、その後の災厄を故人のせいにされたために怨霊と呼ばれてしまったのかなと感じました。(生きているものからすれば「見えない力」ほど怖いものはないですからね)

 

とんでも城! 河内高屋城

 今回は、大阪の羽曳野市にあった高屋城について書いていきたいと思います。

お城の概要

 高屋城

  住 所:大阪府羽曳野市古市5

  築城年:室町時代中期(1470年~1500年頃)

  築城者:畠山義就

  廃城年:1575年

  現在の遺構:空堀・土塁(本丸以外は宅地化されていて遺構は殆ど残らず)

  主な城主:畠山氏、三好氏

何がとんでも!?

 このお城の何がすごいのかって、本丸が古墳の上にあるんです。それもただの豪族などではなく、れっきとした天皇陵(第27代安閑天皇陵)です。

 天皇の墓の上に城を造るって、、、ちょっと考えられないですよね。

 ちなみに、戦国時代前期の守護大名で、当時の高屋城主でもある畠山稙長は、「本城ニハ恐レ」て居住せず「二ノ丸」に居住しています。やはり当時(戦国時代)でも天皇に対する畏敬の念はあったようですね。

 しかもこのお城、お城の規模としては決して小さくはなく、三管領の主城に相応しいサイズのお城ですが、7~8回は落城しています(落ちすぎです!)。

 ちょっとお城としては落城しすぎな感がありますので、もしかすると「守りのための城」ではなく、政庁としての象徴的なお城だったのかもしれません。

そして廃城へ

 高屋城最期の城主・三好康長は、1574年第二次信長包囲網に加わった主君三好義継若江城にて討死したが、本願寺が信長に反旗を翻すと高屋城に入城し、信長に抵抗を続けていましたが、翌1575年に信長に降伏。京都相国寺にて信長に面会し康長本人は赦免されましたが、高屋城は廃城となってしまいました。

 現在は本丸跡は安閑天皇陵である(宮内庁により「古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)」として治定されている)ため、立入できませんし、二の丸、三の丸は宅地化しているため遺構もわからないかもしれませんが、もし近くに来られたら「こんな場所にお城があったんだ」と感傷に浸るのもいいかもしれませんね。

偉人伝 織田信長

 今回は、偉人伝を書いてみたいと思います。第1回は好きな偉人第1位の織田信長で行ってみたいと思いますのでよろしくお願いします。

信長誕生

 織田信長(1934年~1582年)

 尾張下四郡の守護代織田大和守家の分家で三奉行の1家である織田弾正忠家織田信秀の三男(嫡男)として誕生。幼名は吉法師。幼少期の行動から「大うつけ」と言われていたそうです。

 父の信秀が亡くなった後元服し、上総介信長と名乗り隣国である美濃国戦国大名斎藤道三の娘濃姫と結婚、また主家の織田大和守家、本家筋の織田伊勢守家(尾張上四郡守護代)を排除し、弟の織田信行(信勝とも)を後継者争いののち暗殺し、尾張一国の戦国大名を目指すこととなります。

尾張を統一

 1560年、上洛を目指し(たことになっている)尾張に軍事侵攻してきた今川義元桶狭間の戦いで大将義元を討ち取り、戦いに勝利。同時に松平元康(後の徳川家康と同盟を結び、最終的に父信秀の弟織田信康の子信清を排除し尾張一国を統一

その後の躍進

 尾張統一後、妻濃姫の実家である美濃斉藤家の領地へ侵攻し、1567年稲葉山城の戦いで勝利し、稲葉山城を占領。占領した同地を井ノ口から「岐阜」と改名しました。

 1568年、室町幕府13代将軍足利義輝の弟「足利義秋」(後に義昭)の要請を受け幕府再興を口実に上洛し、足利義輝を暗殺した三好三人衆三好長逸三好政勝、岩成友通を京都から解除、義秋を足利15代将軍に就任させました。

 その翌年、伊勢国司の北畠具教・具房親子と大河内の戦いを行い、和睦の結果信長の次男織田信雄を北畠具房の養子とし、名門北畠家の家名を得ることとなりました。

 1570年、信長と将軍義昭は若狭武田氏の家臣武藤友益(主家若狭武田氏当主武田元明が越前の戦国大名朝倉義景拉致監禁されており、武田元明の命で織田信長に抵抗していた)討伐を口実に若狭へ軍事侵攻しました金ヶ崎の戦い。隣国の近江浅井長政とは妹のお市の方を嫁がせたうえ同盟していたため、挟撃されることはないと考えていましたが、ここでまさかの浅井長政が裏切り、京都へ逃げ帰ることとなりました。

 その約2か月後に姉川(現在の滋賀県北部を流れる川)で浅井・朝倉連合軍と対峙姉川の戦いすることとなりました。信長方は徳川家康の援軍を受け、戦に勝利しましたが、敵の大将は討ち取れませんでした。

 返す刀で大坂野田城・福島城に籠る三好三人衆を討伐するため軍を大坂に向けましたが、ここで再びまさかの石山本願寺の攻撃を受け、再び京都へ逃げ帰ることとなりました。最終的には正親町天皇の講和斡旋を受け、和睦が成立しました。

 野田城・福島城の戦いがこう着状態のなか、京都に釘付けとなっている信長を排除するため、浅井・朝倉連合軍が京都方面へ進軍し、信長側の軍事拠点である宇佐山城を攻撃しました。その際に本願寺顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も攻撃に加わりましたが、宇佐山城は落城せず、宇佐山城攻撃を諦めた浅井・朝倉連合軍はそのまま大津方面へと進軍しました。

 近江の防衛線を突破された信長は、こう着状態の野田城・福島城の戦線から撤退し、京都に戻りました。

 信長の京都帰還を知った浅井・朝倉連合軍は比叡山まで撤退、信長軍は近江坂本まで進軍し、比叡山を包囲しました。信長は、比叡山延暦寺に対して「信長に味方するなら織田領に取り込まれた延暦寺の荘園は返還する。それがだめなら中立を守ってほしい。浅井・朝倉に味方するなら焼き討ちする」と言ったそうですが、延暦寺からは明確な返事がありませんでした。

 最終的に延暦寺は浅井・朝倉に味方したため、信長に焼き討ちされることとなりました。

信長包囲網

 その後、将軍義昭と不仲になり(義昭側が一方的に嫌ったと推測される)、第一次信長包囲網を形成、三方ヶ原では徳川家康が甲斐の武田信玄(信長包囲網の構成者)に攻められ、信長も佐久間盛信や平手汎秀を援軍として差し向けましたが敗北三方ヶ原の戦いし、苦境に立たされていました。義昭自身は二条御所に籠って信長に反抗しましたが、正親町天皇の勅旨をもって講和し、戦いは終了しました。

 その後も将軍義昭は信長に抵抗を続け、摂津槇島城に籠って決戦を挑みますが、この戦いでも義昭は敗れ、将軍の京都追放・事実上の室町幕府の滅亡へと繋がります。

 1573年、信長は重臣柴田勝家に兵を預け、越前一乗谷への侵攻を指示し、戦国大名朝倉氏を滅亡させました。

 その後、近江の浅井氏を討伐するため同じく羽柴秀吉に兵を預け小谷城へと攻め込み、近江の戦国大名浅井氏も滅亡させました。また、その際に浅井氏に嫁いでいたお市の方と三人の娘(茶々・初・江)は助けられました。

 先の槇島城の戦いに敗れて京都を追放された足利義昭は、妹が嫁いでいた河内の戦国大名三好義継の保護を受けていましたが、義昭は信長討伐令の御内書を乱発し、次第に義昭に同調するようになったため、信長が義継討伐を決意し、河内若江城で戦いが始まりました。

 この戦いでも信長は勝利し、三好義継を自害させました。

 伊勢に勢力を張る本願寺の一向門徒を討伐するため兵を差し向け、第三次長島侵攻で本願寺の勢力を一掃しました。この際の本願寺側の守将である下間頼旦も討死しています。

 本願寺とは先の野田城・福島城の戦いを喫所にして最終的に10年間(1570年~1580年)[本願寺の石山退去]まで続くことになります。この10年間の戦いを総じて石山合戦と言われています。

 その後も河内高屋城の戦いに勝利し、近畿内抵抗勢力がほぼ本願寺のみとなり、先の三方ヶ原の戦いで惨敗した甲斐の武田氏を迎え撃つべく、1575年三河長篠・設楽が原で戦いが開始されました。

 この戦いで織田・徳川連合軍は武田氏を圧倒し、その後約7年で武田氏嫡流は滅亡することになりました。

 長篠の戦に勝利した信長は、越前の一向宗勢力討伐のため侵攻します。信長はこの戦いにも勝利し、越前北ノ庄75万石に柴田勝家を、越前府中10万石に柴田勝家の与力(前田利家佐々成政・不破光治)に均等に配分されました。

 1576年、本願寺は安芸の戦国大名毛利輝元の兵糧援助を受けられる確約を取り付け、再度信長に対抗するため約5万の動員をかけ、摂津天王寺で信長と対峙することとなるが、信長に敗北し、石山本願寺に籠城することとなりました。

 陸戦で勝利した信長ですが、兵糧の補給のために毛利輝元の軍勢が海路で来ることを想定して、九鬼嘉隆に補給船の遮断のため海上封鎖を指示するが、毛利水軍村上水軍の繰り出す焙烙玉(火矢)により船を焼かれ、海上封鎖を突破されたうえ補給も完成させられました。

 1577年には越後の戦国大名上杉謙信足利義昭の御内書により挙兵し、加賀の手取川柴田勝家と戦い手取川の戦い)、上杉側が勝利し、上杉謙信が亡くなる1578年まで能登・加賀・越中・越前半国が上杉領となってしまいました。

 その後紀州雑賀攻め(最終的に和睦)、1578年の三木合戦(勝利、播磨の平定)の際に離反した荒木村重討伐のための有岡城の戦い(勝利)、第二次木津川口の戦い(九鬼嘉隆の「鉄甲船」により圧勝、本願寺への補給失敗)、伊賀攻め(勝利)、甲州征伐(勝利、武田氏滅亡)、魚津城の戦い(勝利)と「天下布武」を掲げてからその偉業達成まで目前まできていました。

本能寺の変

 信長は、偉業達成のため北陸軍の柴田勝家に上杉討伐を、中国軍の羽柴秀吉に毛利討伐を、三男神戸信孝に四国の長宗我部氏討伐を、滝川一益には関東の押さえをそれぞれ指示していました。関東・東北の諸大名(北条氏や佐竹氏など)は恭順の意を示し、配下になる意向とのことでした。各方面の討伐軍も押し気味に展開し、天下統一まであと少しのところでした。

 各方面軍が各所に散らばる中、唯一信長の近くで待機していた部隊が明智光秀の部隊でした。

 光秀率いる13000の軍勢に対して信長側は100人程度しかおらず、ましてや13000人で本能寺を包囲されているため脱出も不可能でした。

 最終的に信長は自害(火薬庫に火をつけて爆死したとも)することになります。

最後に

 豊臣秀吉が家臣に言った言葉で、「蒲生氏郷の兵10万と、織田信長様の兵5千が戦えば、勝利するのは織田軍である。蒲生側が織田兵4千の首を取っても、信長様は必ず脱出しているが、逆に織田側が5人も討ち取れば、その中に必ず氏郷の首が含まれているからだ。」と語ったという(『名将言行録』ウイキペディアより)。本能寺の変の際に信長の死体を誰も確認していないことから、「信長は生きて脱出したのでは」と思わせるエピソードですし、だからこそ光秀が本能寺の変後に周辺大名への事後調略にしっぱいしたのではないかと思います。(信長が生きてて反撃されたらたまったもんではないですよね)

 しかし、信長ほど他人に裏切られ続けた人も珍しいのではないかとも思いました。逆に信長が他人を裏切ったことは、私が知る限り一度もないのではと思います。ある意味ものすごく真っ直ぐな人だったのかもしれませんね。

 

 

今はない大阪の遊園地

 

 今回のブログは、少し趣向を変えて過去に存在した大阪の遊園地について書いてみたいと思います。

 洩れなどもあるかもしれませんが、ご容赦ください。

 ①エキスポランド

 吹田の万博記念公園内にあった遊園地。敷地内に太陽の塔がありました。

 主なのりものとして、

 ・テクノスター(観覧車)

 ・風神雷神Ⅱ(立ち乗りジェットコースター)

 ・スペースザラマンダー(スクリュー宙返りジェットコースター)

 ・アラビアンメリー(メリーゴーランド)

 ・オロチ(インバーテッドジェットコースター)

 などです。

 風神雷神Ⅱの脱輪による死亡事故などがあり、最終的に2009年2月に閉園してしまいました。現在は「EXPO CITY」(複合型商業施設)として運営されています。

 

 

 ②フェスティバルゲート

 大阪市浪速区恵美須東にありました。スパワールドの隣と言ったほうがわかりやすいかもしれませんね。

 元々は大阪市交通局(市バス)の車庫でしたが、第三セクターに運営委託する形で「都市型立体遊園地」として1997年7月に開業しました。(初めて見たときは、建物からはみ出たジェットコースターが斬新でした。)

 その後、経営不振になり、大阪プロレスの常設会場になったりしましたが、2004年に経営破たん、第三セクターは解散となりました。

 現在はパチンコ屋とドンキホーテがあります。

 主なのりものは、

 ・デルピス・ザ・コースター(ジェットコースター)

 ・クロノス

 などです。元々の敷地が狭いことと、敷地内に大きな建物が存在しているので、乗り物の更新はほとんどなかったと記憶しています。

 ③近鉄玉手山遊園地

 この遊園地は、柏原市玉手町、円明町にあった遊園地で、開園はなんと1908年(明治41年)だそうです。

 当時の運営者は今の近鉄南大阪線を運営していた「河南鉄道」という会社でした。

 私が幼稚園・小学校低学年の時に、よく遠足で行きましたが、「遊園地」というのが憚られるくらい乗り物らしいものはなく、施設の売りは100mだの50mだのの「滑り台」だったと記憶しています。

 たまに催事ブースに戦隊もののイベントがあったりしましたが、学校の遠足で行った際はこのイベントにすら参加させてもらえないので、自分の中ではあまり遊園地の認識はありませんでしたが、ただその名前とのギャップに衝撃を受けました(笑)。

 当遊園地は1998年に閉園し、現在は柏原市立玉手山公園」として運営されています。

 ④みさき公園

 みさき公園は、泉南郡岬町にあった遊園地で、遊園地以外にも動物園や水族館などもありました。

 この公園は南海電鉄が創業70周年を記念して1957年に開園し、2020年3月まで運営されていました。

 遊園地部分を含む敷地・施設の所有権を岬町に譲渡され、現在は「岬町立みさき公園として自然公園に転換利用されているようで、元の遊具などの乗り物施設は順次撤去解体されているようです。

 この遊園地は、当時の家から場所が遠く、テレビcmなどでは見たことありましたが、現地に行った記憶は残念ながらありません。

 ⑤PLランド(桜ヶ丘遊園)

 PLランドは富田林市にあった遊園地で、名前通りPL(パーフェクトリバティー)教団が所有する敷地に作られた遊園地でした。

 遊園地の運営は、教団内のベンチャー企業が行っていました。開園は1957年、春にはものすごい桜が咲く「桜の名所」だった記憶があります。

 今でもたまにYoutubeで当時のcmを見ながら懐かしんだりします。

 小さいころに親に連れて行ってもらっていた記憶がありますが、来場者数も1980年あたりから減少し、閉園前の数年間は「桜ヶ丘遊園」と名前を変え、施設や敷地を徐々に縮小しながら、最終的に1989年9月に完全閉園となったようです。

 同敷地は、元々教団所有地であるため、現在は一般開放されていないようです。

 ⑥りんくうパパラ

 りんくうパパラは、泉佐野市にあった遊園地(ミニ遊園地)で、1994年に開園し、2004年10月に閉園しました。

 遊園地の立地がりんくうタウン駅を降りてすぐだったこともあり、遊園地としての規模は小さいながら、「行きやすい、よい遊園地」という感覚を今でも持っています。

 子供が小さかった頃に1度だけ行きましたが、良い印象ばかりが残っています。(たぶん、設置していた乗り物などが子供の対象年齢にドンピシャだったからかもしれません。)

 ⑦おまけ

 大昔には大阪市港区「市岡パラダイス」という娯楽施設が、また同じ港区の天保山天保山遊園」大阪市浪速区通天閣がある新世界に「ルナパーク」という遊園地があったそうです。(昔すぎて調べるまで知りませんでした。)

 

 かつては大阪にもいろんな遊園地がありましたが、もう遊園地と呼べるような施設はUSJとひらパーくらいしかないのも、何か寂しいものがありますね。

三幕府(鎌倉・室町・江戸)の組織のしくみとその違いについての考察

 

 今回は、昔日本で成立した幕府(鎌倉・室町・江戸)の組織のしくみとその違いについて考察していきます。

 下にそれぞれの幕府の組織機構と名称を表にしてみました。

・三幕府の組織機構

三幕府の比較表

・なぜ鎌倉幕府が成立したのか

 地方で土地を私有する武士団の起源は、天平15年(743年)、朝廷が効果的に収税を行うべく発布した墾田永年私財法の施行により土地私有が公認されたことに由来し、古来の豪族や有力農民などが土地を私有するようになったが、国司による厳しい徴税を回避すべく有力地主たちは公卿に土地の一部を寄進し、荘園の荘官(開発領主)としての地位を得たことが契機であった。寄進した貴族の保護は受けるとはいえ、今度は寄進した荘園領主からの取り立てや国司との摩擦、近隣豪族の侵略も絶えず、有力農民たちはいつしか武装するようになり、武士が誕生する。 [ウイキペディアより]

 つまり、土地の私有を認められたため農地を耕作した人たちが、国司国衙から公領として土地を召し上げられることを回避するために中央の有力者(この時は京都の貴族階級。当時は貴族個人が所有する荘園に免税権があった)に土地を寄進し、現地の土地管理を行うものとしていました。そうすることで不輸不入の権(不輸は税の免除、不入は国司国衙の立ち入り拒否権)を獲得していきましたが、寄進した貴族からの取り立てや国司などとの軋轢が生じ、開拓地の実質管理者である農民が自らの土地を守るために武装化したものが武士の始まりとされています。

 農民が武装化したとはいえ、自らの土地を守る後ろ盾や根拠が必要であるため、開拓者への土地の権利を保障することを目的として幕府が成立しました。

 鎌倉幕府の組織基盤は「御恩」と「奉公」で成り立っています。「御恩」とは、鎌倉殿(=将軍)の家人である御家人となり、幕府の構成員となることで鎌倉殿と主従関係を結び、土地支配を保障する本領安堵と新たな土地を支給する新恩給与の2種類の制度を用いて御家人への領地支配を保障していました。

 「奉公」とは、御家人が鎌倉殿に対して負う軍役や経済負担であり、緊急時の軍役や内裏や幕府の警護、異国警固番役などの元寇に対しての臨時軍役などがありました。

 鎌倉幕府の職制としては、

 ①征夷大将軍(鎌倉殿)

 ②執権(得宗

 ③連署

 ④評定衆、寄合衆

 ⑤引付衆(訴訟の審議)

 ⑥侍所

 ⑦政所

 ⑧問注所

 ⑨京都守護(後に六波羅探題

 ⑩鎮西奉行(後に鎮西探題

 ⑪蝦夷代官

室町幕府のおこり

 元寇による「奉公」に対する恩賞が少なすぎたこと(元に攻め込まれたため幕府が新たに土地を取得できないことにより恩賞が出せなかった)による御家人の幕府に対する不満、軍役負担による御家人の財政圧迫などにより不信感が大きくなっていったこと、また北条時宗が朝廷に介入し分裂した皇室(持明院統大覚寺統)の内部紛争に対する調停を幕府に求めたため、幕府も朝廷の内部紛争に巻き込まれることとなりました。

 1318年に後醍醐天皇が即位し、その後親政を開始すると1331年に後醍醐天皇は討幕計画を企てたが、実行前に疑いを掛けられ、翌年に隠岐島に流されたが、これを契機に幕府や得宗に不満を持つ勢力が反幕府を掲げて反抗するようになり、これらの鎮圧のために幕府から派遣された足利高氏(後に尊氏)が逆に後醍醐天皇側に付き、六波羅探題を攻め落としました。

 ほぼ同時期に関東で新田義貞が討幕軍を立ち上げ、鎌倉へ向かうことになります。途中幕府軍と数度の戦闘を行うがすべて勝利し、最終的に幕府の本拠地である鎌倉を占領し、鎌倉幕府は滅亡することとなりました。

 鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の親政が開始されましたが、後醍醐天皇の政治思考は平安時代天皇親政(延喜・天暦の治)を理想としたものであり、武士の所領問題や訴訟・恩賞請求の急増、復興した記録書(記録荘園券契所)、雑訴決断所などの機関の権限衝突などがあり、武士の要求に対する期待に応えることができず、特に東国の武士の離反を招くことになりました。

 最終的に足利尊氏の離反を招き、湊川の戦い楠木正成などを撃破し、北朝方の光厳上皇を奉じて入京して建武の親政が終了しました。

 建武の親政瓦解後に即位した光明天皇光厳上皇の弟)によって征夷大将軍に任じられ、幕府を開くこととなりました。

室町幕府とは

 後醍醐天皇が行った建武の親政(公地公民の原則)に対する武士団の反発(自領地の本領安堵)から来る武士の後押しがあるため、基本的には鎌倉幕府の組織機構を踏襲しています。

 室町幕府の職制は、

 ①征夷大将軍足利将軍家=公方)

 ②管領

 ③評定衆

 ④政所

 ⑤問注所

 ⑥小侍所

 ⑦奉公衆

 ⑧地方(じかた)

 ⑨禅律方(ぜんりつかた)

 ⑩神宮方

 ⑪鎌倉府(関東におけるミニ幕府)

 ⑫守護職

 ⑬地頭

 ⑭奥州探題

 ⑮羽州探題

 ⑯九州探題

 となっています。

 室町幕府は、成立経過(南北朝時代の一方の朝廷から将軍宣下を受けている)から、支配構造が弱く、将軍としての権威を発揮できるようになるのは三代足利義満の時代からと言われています。しかしながら、補佐側近である管領に就任できるのが「斯波」「畠山」「細川」といった庶流一族のみであり、それぞれが一族内で権力争いをした結果、それぞれが自滅衰退しています。有名な応仁の乱は畠山氏の一族内の権力争いが発端となっています。

 しかし、それ以上に幕府の権威を失墜させたのが、六代将軍足利義教が、播磨・備前・美作守護の赤松満祐に暗殺された嘉吉の乱事件です。これ以降に本格的に戦国時代に突入していくことになります。

江戸幕府とは

 戦国時代の最終的な勝者となり、1600年の関ヶ原の戦いにも勝利し、1603年に後陽成天皇から将軍宣下を受け征夷大将軍に就任し江戸に幕府を開きました。

 まず、鎌倉幕府室町幕府の将軍と江戸幕府の将軍の大きな違いは、江戸幕府の将軍は自らも一大名として自らの領地(天領・御領)を支配している点にあります。

 また、江戸時代の支配体制は幕藩体制といい、将軍は主従関係を結んだ各大名に「朱印状」を与えて領地の支配権を認め、大名は自らの領地を独自に統治すること、感覚的には中央政府が将軍(=幕府)、地方政府が大名(=藩)といった感じでしょうか。

 他には、将軍と大名との主従関係を確認するための軍役として「参勤交代」を行い、築城や治水工事の手伝普請が課されていました。

 これまでの幕府と将軍の家人の関係は「相互協力関係」が主軸でしたが、江戸幕府は将軍が大名の動きを抑制する「支配関係」です。

 江戸幕府の職制は細かいものまで入れるとキリがないので、

 ①征夷大将軍(大御所)

 ②老中(臨時職として大老

 ③若年寄

 ④側用人・御側御用取次

 ⑤留守居

 ⑥京都所司代

 ⑦大阪城代

 ⑧三奉行(寺社奉行町奉行勘定奉行

 ⑨遠国奉行

 ⑩旗本役

 が主たる職制となっています。また、同様の支配構造が各藩にも存在し、江戸時代の職制が複雑なものになっています。

 自分が受けた感覚では、江戸幕府の組織機構は徳川家の支配構図をそのまま幕府内の職制に当てはめたイメージなので、先の幕府(鎌倉・室町)と支配構造が違うのかなと感じました。

 250年続いた江戸幕府幕藩体制「黒船来襲」という外圧であっさり崩壊したことからも、完全な支配体制ではなかったのかもしれませんね。

 

 

日本の城とは

目次

①古代からの「城」、「柵」とは

 城柵(じょうさく)は、7世紀から11世紀までの古代日本において大和朝廷ヤマト王権、中央政権)が、本州北東部を征服する事業の拠点として築いた施設である。[ウイキペディアより]

 有名なものとしては、アテルイ(大墓公阿弖流為)討伐のために坂上田村麻呂が築いた胆沢城(柵)岩手県奥州市)や当時の東北地方の国府鎮守府として機能した多賀城(柵)宮城県多賀城市)などがあります。

 ウイキペディアの記事にもあるように、「柵」は特に東北地方の施設に付いた名前のようで、西日本(特に九州)では「柵」とは言わないようです。

 西日本の有名な城郭としては、大野城(福岡県太宰府市大野城市糟屋郡宇美町にまたがる)や水城(福岡県太宰府市大野城市春日市にまたがる)があります。

 ただ、東北地方の「柵」も西日本の「城」も「き」と読みます。

 この頃の城は、現在の天守などはなく、環濠地に柵を巡らせ、場合によっては見張りなどに使用する櫓がある程度のもの、また敵の侵入を妨害するための防塁だけのものなどです。(イメージ的には防御のため柵でバリケードした中世ヨーロッパの城塞都市のような感じといったところでしょうか)

②中世の城

 ここでいう「中世」とは、主に南北朝時代をイメージして書きます。

 この時代の特徴としては、

 ・基本的に山の中腹や頂上に存在している。(山城)

 ・これまでになかったものとして堀切空堀がある。

 ・施設防衛のために曲輪(くるわ)が設けられている。

  ※ここでいう曲輪とは、本丸、二の丸、出丸、馬出など土地をある程度平坦に削り  

   出し、味方が集合・集結できる空間のこと

  といったものです。

 この頃でも、まだ天守はありません。ただし、実際に戦闘を想定して作成されていますので、難攻不落と言われる城が存在しているのも事実です。(広島県安芸高田市吉田郡山城などは難攻不落で有名ですね)

③戦国時代の城

 この頃の城の大部分は、それ以前から存在している「山城」が主体ですが、平地の丘陵部分に作られた平山城、河川の中州など平野部に作られた「平城」などが出てくるようになります。

 本来、城の防衛のためだけであれば、高い場所に城を築くのがよいのですが(富士山の頂上に城を築けば難攻不落間違いなし!?)、自分の領地を守るためにはあまり高い場所に城を築いても籠城中に城下の建物が燃やされるなど被害が出ます。

 そういった被害をできるだけ防ぐために城下町を整備し、家臣を城下に住まわせて緊急時の対応や見張りを兼ねさせること、また、この頃には天守も登場し、政治的支配の拠点として機能していました。(山城は防御には向くが政治支配としては領地との距離がある)

 また、この頃の城の特徴として、鉄砲や大砲への対策としての石垣や土壁を塗った建物の整備(逆に言えば昔の城は敵の侵入防止のための柵で簡素な造りのもの、戦闘たびに場所が変わるなどの使い捨て的な使用方法のものがありました。)など、政庁として恒常的に使用することを想定して作られるようになったようです。

④江戸時代以降の城

 江戸時代以降の城は、軍事拠点としての意義がほとんどなく、政庁としての意味合いのみの施設となったようです。

 領民から徴収した税としてのお金や米などを保管する蔵が城内に作られ、これらの金品を守ることが城の役目となっていったようです。

 その後幕末には再び内戦の兆しがあったため、従来の城とは一線を画すもの(函館の五稜郭は有名ですよね)も登場し、近代の戦闘に対応する城も登場するようになりました。