三幕府(鎌倉・室町・江戸)の組織のしくみとその違いについての考察

 

 今回は、昔日本で成立した幕府(鎌倉・室町・江戸)の組織のしくみとその違いについて考察していきます。

 下にそれぞれの幕府の組織機構と名称を表にしてみました。

・三幕府の組織機構

三幕府の比較表

・なぜ鎌倉幕府が成立したのか

 地方で土地を私有する武士団の起源は、天平15年(743年)、朝廷が効果的に収税を行うべく発布した墾田永年私財法の施行により土地私有が公認されたことに由来し、古来の豪族や有力農民などが土地を私有するようになったが、国司による厳しい徴税を回避すべく有力地主たちは公卿に土地の一部を寄進し、荘園の荘官(開発領主)としての地位を得たことが契機であった。寄進した貴族の保護は受けるとはいえ、今度は寄進した荘園領主からの取り立てや国司との摩擦、近隣豪族の侵略も絶えず、有力農民たちはいつしか武装するようになり、武士が誕生する。 [ウイキペディアより]

 つまり、土地の私有を認められたため農地を耕作した人たちが、国司国衙から公領として土地を召し上げられることを回避するために中央の有力者(この時は京都の貴族階級。当時は貴族個人が所有する荘園に免税権があった)に土地を寄進し、現地の土地管理を行うものとしていました。そうすることで不輸不入の権(不輸は税の免除、不入は国司国衙の立ち入り拒否権)を獲得していきましたが、寄進した貴族からの取り立てや国司などとの軋轢が生じ、開拓地の実質管理者である農民が自らの土地を守るために武装化したものが武士の始まりとされています。

 農民が武装化したとはいえ、自らの土地を守る後ろ盾や根拠が必要であるため、開拓者への土地の権利を保障することを目的として幕府が成立しました。

 鎌倉幕府の組織基盤は「御恩」と「奉公」で成り立っています。「御恩」とは、鎌倉殿(=将軍)の家人である御家人となり、幕府の構成員となることで鎌倉殿と主従関係を結び、土地支配を保障する本領安堵と新たな土地を支給する新恩給与の2種類の制度を用いて御家人への領地支配を保障していました。

 「奉公」とは、御家人が鎌倉殿に対して負う軍役や経済負担であり、緊急時の軍役や内裏や幕府の警護、異国警固番役などの元寇に対しての臨時軍役などがありました。

 鎌倉幕府の職制としては、

 ①征夷大将軍(鎌倉殿)

 ②執権(得宗

 ③連署

 ④評定衆、寄合衆

 ⑤引付衆(訴訟の審議)

 ⑥侍所

 ⑦政所

 ⑧問注所

 ⑨京都守護(後に六波羅探題

 ⑩鎮西奉行(後に鎮西探題

 ⑪蝦夷代官

室町幕府のおこり

 元寇による「奉公」に対する恩賞が少なすぎたこと(元に攻め込まれたため幕府が新たに土地を取得できないことにより恩賞が出せなかった)による御家人の幕府に対する不満、軍役負担による御家人の財政圧迫などにより不信感が大きくなっていったこと、また北条時宗が朝廷に介入し分裂した皇室(持明院統大覚寺統)の内部紛争に対する調停を幕府に求めたため、幕府も朝廷の内部紛争に巻き込まれることとなりました。

 1318年に後醍醐天皇が即位し、その後親政を開始すると1331年に後醍醐天皇は討幕計画を企てたが、実行前に疑いを掛けられ、翌年に隠岐島に流されたが、これを契機に幕府や得宗に不満を持つ勢力が反幕府を掲げて反抗するようになり、これらの鎮圧のために幕府から派遣された足利高氏(後に尊氏)が逆に後醍醐天皇側に付き、六波羅探題を攻め落としました。

 ほぼ同時期に関東で新田義貞が討幕軍を立ち上げ、鎌倉へ向かうことになります。途中幕府軍と数度の戦闘を行うがすべて勝利し、最終的に幕府の本拠地である鎌倉を占領し、鎌倉幕府は滅亡することとなりました。

 鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の親政が開始されましたが、後醍醐天皇の政治思考は平安時代天皇親政(延喜・天暦の治)を理想としたものであり、武士の所領問題や訴訟・恩賞請求の急増、復興した記録書(記録荘園券契所)、雑訴決断所などの機関の権限衝突などがあり、武士の要求に対する期待に応えることができず、特に東国の武士の離反を招くことになりました。

 最終的に足利尊氏の離反を招き、湊川の戦い楠木正成などを撃破し、北朝方の光厳上皇を奉じて入京して建武の親政が終了しました。

 建武の親政瓦解後に即位した光明天皇光厳上皇の弟)によって征夷大将軍に任じられ、幕府を開くこととなりました。

室町幕府とは

 後醍醐天皇が行った建武の親政(公地公民の原則)に対する武士団の反発(自領地の本領安堵)から来る武士の後押しがあるため、基本的には鎌倉幕府の組織機構を踏襲しています。

 室町幕府の職制は、

 ①征夷大将軍足利将軍家=公方)

 ②管領

 ③評定衆

 ④政所

 ⑤問注所

 ⑥小侍所

 ⑦奉公衆

 ⑧地方(じかた)

 ⑨禅律方(ぜんりつかた)

 ⑩神宮方

 ⑪鎌倉府(関東におけるミニ幕府)

 ⑫守護職

 ⑬地頭

 ⑭奥州探題

 ⑮羽州探題

 ⑯九州探題

 となっています。

 室町幕府は、成立経過(南北朝時代の一方の朝廷から将軍宣下を受けている)から、支配構造が弱く、将軍としての権威を発揮できるようになるのは三代足利義満の時代からと言われています。しかしながら、補佐側近である管領に就任できるのが「斯波」「畠山」「細川」といった庶流一族のみであり、それぞれが一族内で権力争いをした結果、それぞれが自滅衰退しています。有名な応仁の乱は畠山氏の一族内の権力争いが発端となっています。

 しかし、それ以上に幕府の権威を失墜させたのが、六代将軍足利義教が、播磨・備前・美作守護の赤松満祐に暗殺された嘉吉の乱事件です。これ以降に本格的に戦国時代に突入していくことになります。

江戸幕府とは

 戦国時代の最終的な勝者となり、1600年の関ヶ原の戦いにも勝利し、1603年に後陽成天皇から将軍宣下を受け征夷大将軍に就任し江戸に幕府を開きました。

 まず、鎌倉幕府室町幕府の将軍と江戸幕府の将軍の大きな違いは、江戸幕府の将軍は自らも一大名として自らの領地(天領・御領)を支配している点にあります。

 また、江戸時代の支配体制は幕藩体制といい、将軍は主従関係を結んだ各大名に「朱印状」を与えて領地の支配権を認め、大名は自らの領地を独自に統治すること、感覚的には中央政府が将軍(=幕府)、地方政府が大名(=藩)といった感じでしょうか。

 他には、将軍と大名との主従関係を確認するための軍役として「参勤交代」を行い、築城や治水工事の手伝普請が課されていました。

 これまでの幕府と将軍の家人の関係は「相互協力関係」が主軸でしたが、江戸幕府は将軍が大名の動きを抑制する「支配関係」です。

 江戸幕府の職制は細かいものまで入れるとキリがないので、

 ①征夷大将軍(大御所)

 ②老中(臨時職として大老

 ③若年寄

 ④側用人・御側御用取次

 ⑤留守居

 ⑥京都所司代

 ⑦大阪城代

 ⑧三奉行(寺社奉行町奉行勘定奉行

 ⑨遠国奉行

 ⑩旗本役

 が主たる職制となっています。また、同様の支配構造が各藩にも存在し、江戸時代の職制が複雑なものになっています。

 自分が受けた感覚では、江戸幕府の組織機構は徳川家の支配構図をそのまま幕府内の職制に当てはめたイメージなので、先の幕府(鎌倉・室町)と支配構造が違うのかなと感じました。

 250年続いた江戸幕府幕藩体制「黒船来襲」という外圧であっさり崩壊したことからも、完全な支配体制ではなかったのかもしれませんね。