偉人伝 織田信長

 今回は、偉人伝を書いてみたいと思います。第1回は好きな偉人第1位の織田信長で行ってみたいと思いますのでよろしくお願いします。

信長誕生

 織田信長(1934年~1582年)

 尾張下四郡の守護代織田大和守家の分家で三奉行の1家である織田弾正忠家織田信秀の三男(嫡男)として誕生。幼名は吉法師。幼少期の行動から「大うつけ」と言われていたそうです。

 父の信秀が亡くなった後元服し、上総介信長と名乗り隣国である美濃国戦国大名斎藤道三の娘濃姫と結婚、また主家の織田大和守家、本家筋の織田伊勢守家(尾張上四郡守護代)を排除し、弟の織田信行(信勝とも)を後継者争いののち暗殺し、尾張一国の戦国大名を目指すこととなります。

尾張を統一

 1560年、上洛を目指し(たことになっている)尾張に軍事侵攻してきた今川義元桶狭間の戦いで大将義元を討ち取り、戦いに勝利。同時に松平元康(後の徳川家康と同盟を結び、最終的に父信秀の弟織田信康の子信清を排除し尾張一国を統一

その後の躍進

 尾張統一後、妻濃姫の実家である美濃斉藤家の領地へ侵攻し、1567年稲葉山城の戦いで勝利し、稲葉山城を占領。占領した同地を井ノ口から「岐阜」と改名しました。

 1568年、室町幕府13代将軍足利義輝の弟「足利義秋」(後に義昭)の要請を受け幕府再興を口実に上洛し、足利義輝を暗殺した三好三人衆三好長逸三好政勝、岩成友通を京都から解除、義秋を足利15代将軍に就任させました。

 その翌年、伊勢国司の北畠具教・具房親子と大河内の戦いを行い、和睦の結果信長の次男織田信雄を北畠具房の養子とし、名門北畠家の家名を得ることとなりました。

 1570年、信長と将軍義昭は若狭武田氏の家臣武藤友益(主家若狭武田氏当主武田元明が越前の戦国大名朝倉義景拉致監禁されており、武田元明の命で織田信長に抵抗していた)討伐を口実に若狭へ軍事侵攻しました金ヶ崎の戦い。隣国の近江浅井長政とは妹のお市の方を嫁がせたうえ同盟していたため、挟撃されることはないと考えていましたが、ここでまさかの浅井長政が裏切り、京都へ逃げ帰ることとなりました。

 その約2か月後に姉川(現在の滋賀県北部を流れる川)で浅井・朝倉連合軍と対峙姉川の戦いすることとなりました。信長方は徳川家康の援軍を受け、戦に勝利しましたが、敵の大将は討ち取れませんでした。

 返す刀で大坂野田城・福島城に籠る三好三人衆を討伐するため軍を大坂に向けましたが、ここで再びまさかの石山本願寺の攻撃を受け、再び京都へ逃げ帰ることとなりました。最終的には正親町天皇の講和斡旋を受け、和睦が成立しました。

 野田城・福島城の戦いがこう着状態のなか、京都に釘付けとなっている信長を排除するため、浅井・朝倉連合軍が京都方面へ進軍し、信長側の軍事拠点である宇佐山城を攻撃しました。その際に本願寺顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も攻撃に加わりましたが、宇佐山城は落城せず、宇佐山城攻撃を諦めた浅井・朝倉連合軍はそのまま大津方面へと進軍しました。

 近江の防衛線を突破された信長は、こう着状態の野田城・福島城の戦線から撤退し、京都に戻りました。

 信長の京都帰還を知った浅井・朝倉連合軍は比叡山まで撤退、信長軍は近江坂本まで進軍し、比叡山を包囲しました。信長は、比叡山延暦寺に対して「信長に味方するなら織田領に取り込まれた延暦寺の荘園は返還する。それがだめなら中立を守ってほしい。浅井・朝倉に味方するなら焼き討ちする」と言ったそうですが、延暦寺からは明確な返事がありませんでした。

 最終的に延暦寺は浅井・朝倉に味方したため、信長に焼き討ちされることとなりました。

信長包囲網

 その後、将軍義昭と不仲になり(義昭側が一方的に嫌ったと推測される)、第一次信長包囲網を形成、三方ヶ原では徳川家康が甲斐の武田信玄(信長包囲網の構成者)に攻められ、信長も佐久間盛信や平手汎秀を援軍として差し向けましたが敗北三方ヶ原の戦いし、苦境に立たされていました。義昭自身は二条御所に籠って信長に反抗しましたが、正親町天皇の勅旨をもって講和し、戦いは終了しました。

 その後も将軍義昭は信長に抵抗を続け、摂津槇島城に籠って決戦を挑みますが、この戦いでも義昭は敗れ、将軍の京都追放・事実上の室町幕府の滅亡へと繋がります。

 1573年、信長は重臣柴田勝家に兵を預け、越前一乗谷への侵攻を指示し、戦国大名朝倉氏を滅亡させました。

 その後、近江の浅井氏を討伐するため同じく羽柴秀吉に兵を預け小谷城へと攻め込み、近江の戦国大名浅井氏も滅亡させました。また、その際に浅井氏に嫁いでいたお市の方と三人の娘(茶々・初・江)は助けられました。

 先の槇島城の戦いに敗れて京都を追放された足利義昭は、妹が嫁いでいた河内の戦国大名三好義継の保護を受けていましたが、義昭は信長討伐令の御内書を乱発し、次第に義昭に同調するようになったため、信長が義継討伐を決意し、河内若江城で戦いが始まりました。

 この戦いでも信長は勝利し、三好義継を自害させました。

 伊勢に勢力を張る本願寺の一向門徒を討伐するため兵を差し向け、第三次長島侵攻で本願寺の勢力を一掃しました。この際の本願寺側の守将である下間頼旦も討死しています。

 本願寺とは先の野田城・福島城の戦いを喫所にして最終的に10年間(1570年~1580年)[本願寺の石山退去]まで続くことになります。この10年間の戦いを総じて石山合戦と言われています。

 その後も河内高屋城の戦いに勝利し、近畿内抵抗勢力がほぼ本願寺のみとなり、先の三方ヶ原の戦いで惨敗した甲斐の武田氏を迎え撃つべく、1575年三河長篠・設楽が原で戦いが開始されました。

 この戦いで織田・徳川連合軍は武田氏を圧倒し、その後約7年で武田氏嫡流は滅亡することになりました。

 長篠の戦に勝利した信長は、越前の一向宗勢力討伐のため侵攻します。信長はこの戦いにも勝利し、越前北ノ庄75万石に柴田勝家を、越前府中10万石に柴田勝家の与力(前田利家佐々成政・不破光治)に均等に配分されました。

 1576年、本願寺は安芸の戦国大名毛利輝元の兵糧援助を受けられる確約を取り付け、再度信長に対抗するため約5万の動員をかけ、摂津天王寺で信長と対峙することとなるが、信長に敗北し、石山本願寺に籠城することとなりました。

 陸戦で勝利した信長ですが、兵糧の補給のために毛利輝元の軍勢が海路で来ることを想定して、九鬼嘉隆に補給船の遮断のため海上封鎖を指示するが、毛利水軍村上水軍の繰り出す焙烙玉(火矢)により船を焼かれ、海上封鎖を突破されたうえ補給も完成させられました。

 1577年には越後の戦国大名上杉謙信足利義昭の御内書により挙兵し、加賀の手取川柴田勝家と戦い手取川の戦い)、上杉側が勝利し、上杉謙信が亡くなる1578年まで能登・加賀・越中・越前半国が上杉領となってしまいました。

 その後紀州雑賀攻め(最終的に和睦)、1578年の三木合戦(勝利、播磨の平定)の際に離反した荒木村重討伐のための有岡城の戦い(勝利)、第二次木津川口の戦い(九鬼嘉隆の「鉄甲船」により圧勝、本願寺への補給失敗)、伊賀攻め(勝利)、甲州征伐(勝利、武田氏滅亡)、魚津城の戦い(勝利)と「天下布武」を掲げてからその偉業達成まで目前まできていました。

本能寺の変

 信長は、偉業達成のため北陸軍の柴田勝家に上杉討伐を、中国軍の羽柴秀吉に毛利討伐を、三男神戸信孝に四国の長宗我部氏討伐を、滝川一益には関東の押さえをそれぞれ指示していました。関東・東北の諸大名(北条氏や佐竹氏など)は恭順の意を示し、配下になる意向とのことでした。各方面の討伐軍も押し気味に展開し、天下統一まであと少しのところでした。

 各方面軍が各所に散らばる中、唯一信長の近くで待機していた部隊が明智光秀の部隊でした。

 光秀率いる13000の軍勢に対して信長側は100人程度しかおらず、ましてや13000人で本能寺を包囲されているため脱出も不可能でした。

 最終的に信長は自害(火薬庫に火をつけて爆死したとも)することになります。

最後に

 豊臣秀吉が家臣に言った言葉で、「蒲生氏郷の兵10万と、織田信長様の兵5千が戦えば、勝利するのは織田軍である。蒲生側が織田兵4千の首を取っても、信長様は必ず脱出しているが、逆に織田側が5人も討ち取れば、その中に必ず氏郷の首が含まれているからだ。」と語ったという(『名将言行録』ウイキペディアより)。本能寺の変の際に信長の死体を誰も確認していないことから、「信長は生きて脱出したのでは」と思わせるエピソードですし、だからこそ光秀が本能寺の変後に周辺大名への事後調略にしっぱいしたのではないかと思います。(信長が生きてて反撃されたらたまったもんではないですよね)

 しかし、信長ほど他人に裏切られ続けた人も珍しいのではないかとも思いました。逆に信長が他人を裏切ったことは、私が知る限り一度もないのではと思います。ある意味ものすごく真っ直ぐな人だったのかもしれませんね。